2024/01/08 15:20
──やっぱり無理。
回転ドアの前、私はどうしてもガラスを手のひらで押すことができなくてもじもじしていた。
ここはcloset museum。博物館のような古着屋というキャッチフレーズのポスターを見かけて、気になって見にきたはいいものの予想より敷居が高くて入れないでいる。
前から古着ファッションは気になっていて、インスタでもちょくちょくコーディネートをチェックしていた。いざ自分が着ようと思うと、さっぱり思いつかない。
だって古着って色と色、柄と柄は当たり前なんだよね?私には難易度が高すぎる。普通のおしゃれだってよくわからないでSNSの情報をもとになんとかついていっている状態なのに。
回れ右をしようとしたところで、ガラス戸の向こうの瞳と目があった。驚きのあまり無言で飛び退いてしまった。
彼女たちはにっこり笑うと手招きした。金の名札には案内人と刻印がある。二人とも可愛いニットを着ていた。一人は薔薇の模様、一人は雪の結晶のようなパールビーズの刺繍。古着屋の店員──いや、案内人か。とにかくお洒落な人を前にして私は萎縮しきっていた。
物腰丁寧ながら確実に室内へと導かれてしまい、あっさりと私は入館の一線を超えた。
満天の星空を模した天井のホール。それを抜けて品物が展示されている通路まで案内される。
ガチガチに緊張していた私の体が少しほぐれるくらいには、洋服の品揃えが素晴らしかった。
20年以上前に作られたものが多いのに、状態は綺麗なものばかり。ほつれや穴、汚れはすべてケアしてあった。なるほど、「博物館のような」というのはこういう意味なのかもしれない。
価値のある絵画や遺跡は定期的に修繕されて、なるべく当時の美しさを保とうとするものだ。
私は、赤くてチューリップの模様がついたニットの帯──なんと表現したらいいのかわからない──が、襷掛けみたいに斜めにニットを横切ってついている一着に目を留めた。
真っ赤でもなく、暗くもなく、レトロな赤。
赤い服ってどうしてこんなに心惹かれるんだろう。
じっと見つめていると、案内人が壁からニットを取って私の体へ当てるように差し出してきた。
「い、いえ……!見ていただけなので!私、赤似合わないし……どうやって着たらいいのかもわからなくて……」
何を口走っているのか。自分に呆れる。いつも緊張で暴走してネガティブな言葉を発してしまう。ニットを差し出したポーズで止まったまま、黒髪の案内人がきょとんとしている。
普段の服屋でもこうなのだ、私は。
服は好きで、そのくせ自信がなくて、店員さんを困惑させるようなことばかり答えてしまう。「お似合いですよ」なんて言ってもらって、その場で購入しても家の鏡で着た姿に落胆する。その繰り返し。
「──似合わないと思う理由はございますか?」
案内人は問いかけた。口を突いて出ようとする卑下の言葉をぐっと飲み込む。そして、ゆっくりと言葉を選びながら並べた。
顔色が悪く見える。
服だけ浮いて見える。
そもそも着こなせない。
私の言葉にふむふむと頷いたあと、案内人はもう一人に目配せした。それを受けた彼女が腰に手をやると、そこにはレザーのベルトポーチがあり、ホルダーから真鍮のハンドベルが出てきた。
涼やかでよく通るベルの音が鳴る。一拍おいて、近くの扉から「館長」と刻印された名札をつけた人物が顔を出した。案内人が近づき耳打ちする。
館長は頷き扉の奥へ引っ込んだかと思うと、風の速さですぐにまた現れた。手にはカラフルな布がたくさん抱えられている。
動向を見守っていた私と目が合うと、手招きをした。
別室に通され、木目の椅子に腰かけるように言われた。目の前には大きい姿見が私と向かい合うように置かれている。
自分の姿を直視して、思わずぎゅっと目をつむる。場違い、あか抜けない、芋臭い、挙動不審。
鏡の中の陰気な私がちくちくと刺すような言葉を投げかけてくる。泣きだしたいのを必死に抑える。
やっぱり、来るべきじゃなかった。今朝適当にタンスから選んだジーンズの膝を固く握った。
「お顔を上げていただけますか?」
案内人の優しい声色ではっと顔を上げる。館長が色合いの違うピンクの布をいくつか手に取り、私の顎の下に次々と当てていく。
淡い桜色、サンゴのようなコーラルピンク、ベージュに桃を加えたピンク、目の覚めるようなショッキングピンク。布が変わるごとに私の顔色が不思議と変化して見える。案内人たちはやんややんやと(本当にこう言っていた)合いの手を入れながら様子を楽しそうに眺めている。館長は何かしらをメモ用紙に書きつけながら布を変えていく。青、緑、そして──赤。
4枚をゆっくりを当て変えていくうち、私は自分の造形ではなく色の移り変わりと顔色に集中できるようになっていた。
「お客様は本当に明るい色がお似合いですねえ」
最後に、さっき見ていた赤のニットが顔の下に当てられた。顔にさっと血色が差した、ように見えた。血の気が引いてぶるぶる震えていた私を補ってくれている。
「こちらのニットはパーソナルカラーが春の方と冬の方に特におすすめのものなんです。お客様は春冬の方で、明るく鮮やかな色がお似合いなのでぜひお召しになってみてください」
正直私には何を言っているのかあまりわからなかったけれど、自分に似合う色を診断できるサービスが流行っていることは何となく知っていた。私は『明るく鮮やかな色が似合う』と言われたことに動揺していた。自分と一番遠くにあるものだと思っていたからだ。
恐る恐るニットに袖を通す。手渡されるままに、まろやかな苺色の口紅を唇に塗って鏡を見た。
どき、と心臓が跳ねた。
鏡の中の私は相変わらず自信なさげに背中を丸めていたが、肌が明るく元気に見えた。適当だったはずのジーンズの色もニットを引き立てている。ゆっくり背筋を伸ばして、前、後ろ……と眺めてみる。まるで初めて服を着た人間みたいだ、と苦笑した。でも、気分がいい。
「姿見で見たときに、服単体だけでなく『それを着た自分』として認識できたら似合っているということですよ」
museumの案内人と館長は揃って嬉しそうにこちらを見ている。もう一度鏡を見た。──『私』だ。
いつの間にか泣きたい気持ちは収まっていた。鏡の中で私が口角を少しだけ上げたのが見えた。
「あの……これ、いただけますか?」
***
深い深いため息をついた。もうずいぶん呼吸を忘れてしまっていたような気がする。
背後ではまだ出たばかりの回転扉がゆっくり回っている。陽は落ちかけて、紙袋の中のニットと同じ色に世界を染め上げていた。反対の方角には薄い月が昇ってきている。
とうとう買ってしまった。飛び跳ねたい思いがした。服を買ってうきうきしたのはいつぶりだろう。
振り返ると、博物館はもう入る前の威圧感は放っていなかった。夕陽に照らされて優しい影を落としつつある。
他人が聞けばただ服屋に入って買い物しただけと思うだろう。
帰る方角に昇る月を見上げる。
かつて人類が月に到達したときのように、私にとっては大きな一歩だ。
https://closetmuseum.base.shop/items/80639988